
粛粲寶と胡牀庵青空子の世界

この画像は令和4年 坂東郷土館ミュージアム(坂東市立資料館)で開催された「生誕120年 記念特別絵画展 粛燦寶野世界(令和4年9/17・土 ▶ 12/25・日)のパンフレットから引用させていただきました。
ミュージアムでは平成14年度 「粛粲寶作品展 ─表現されたその孤高の魂─」にも粛燦寶の企画展が開催されました







毎日新聞 9月18日 いばらきプリズム
粛燦寶と青空子(上) ─ 出会い
偶然見た絵に衝撃
おおらか、見る人を豊かに
粛燦寶は新潟生まれ。1918年に16歳で上京し、水産加工会社で働きながら、大倉商業学校(元東京経済大)に学んだ。20歳で洋画家・黒田清輝に師事。帝展や院展に入選した。小遣いほしさに描いた絵を、会社の役員らが自費で買ってくれた。「それで一日一日を過ごせた」と中山さんに語っていた。
29歳で同郷の日本画家・小林古径に教えを請うた。しかし2年後、「古典の亜流」という美術界の評判に悩み、画業を離れ奈良の古寺喜光寺で寄宿生活を始める。そこで仏教やお経を学んだ。
4年後の37年に帰京し活動再開した時は、中国古典や仏法の教養に基づく文人画調に画風が変わっていた。「水がなくなったから風呂の水をいっぱいにしていたんだ」という。
墨と顔料で絵を描いて、漢詩やお経など画賛を書き、遊印を彫って押す。画賛(がさん)や誘因にも機知に富んだメッセージが込められた。天衣無縫で変幻自在、おおらかで見る人を豊かな気持ちにだせる独自の作風が誕生した。
著名な画家からも会派に入るよう誘われたが、「俺は一匹オオカミになっちゃたので」と断り、画壇から離れ、どの会派にも属さなかった。美術大学の教壇に立たないかと誘われたが、「人に教えるために絵描きになったのではない」と断った。
48年ごろに東京・久我山に居を移し、妻と2男3女の子どもと暮らした。54年、雅号を粛燦寶に。燦は白く光り輝くコメ。コメを宝として粛々と生きるという意味が込められている。精力的に個展を開き、全国に愛好家が増えていった。

中山さんは40年、境町の「幸松屋時計店」の次男として生まれた。戦後まもなくは紙が買えず、いつも道路に落書きをした。「隣の金物店の壁にガリガリ絵を描いてよくしかられた」。小学生の時に猿島郡展に入選し、画家を志した。中学時代は納税啓発ポスターで知事賞に選ばれた。ちょうど粛燦寶の雅号が誕生したころだが、当時はその存在も知らなかった。
10代後半から4年間、宇都宮で時計技師として働きながら油絵に打ち込んだ。美術家団体「三軌会」に入会し、東京都展や栃木県展に度々入選するなど腕を上げた。64年に父親が病気を患い、家業を継ぎ、所帯ももた。
中山さんにとって大きな転機が、65年に訪れる。東京有楽町にパスポートを取得に行った帰り、道に迷った。たどり着いた銀座のデパートで粛燦寶の個展が開かれていた。名前しか知らなかったが、そこで見た観音の絵に衝撃を受けた。
後日、「田舎の小さな時計屋でこれしか払えないが、マッチ箱の大きさでもいいから描いてください。とにかく先生の絵が欲しい」と手紙を書き、10万円を入れて送った。すぐに電話がかかってきた。「俺は先に金をもらって描くような絵描きじゃない」と約40分しかられた。
ところが3ヶ月後、連絡があり自宅に行くと、立派に表装した童子の絵が用意されていた。粛燦寶は63歳。中山さんは粛燦寶の長男と同じ25歳。38歳差の師弟関係が始まった。
毎日新聞 9月19日 いばらきプリズム
粛燦寶と青空子(中)── 師弟関係
心の中を吐き出せ
批評は不要「絵は信念」
孤高の画家・粛燦寶(1902~94、水島太一郎)と境町で「幸松屋時計店」を経営する中山正男さん(85)。師弟関係は60年までに始まった。
中山さんは65年、粛燦寶に「三軌会」を辞めて俺のところへこい」と言われ。店の定休日の火曜日に毎週、片道3時間かけて、東京・久我山の粛燦寶の自宅に通った。別の曜日に行くと「仕事をさぼって来るな」としかられ、火曜日に来ないと「どうした?俺は待っていたのに」とまたしかられた。いつも5時間滞在し、延々とよもやま話をした。
一度だけ描いた絵を持って行ったことがある。粛燦寶に「自分の信念で書けばいいんだ。俺が見なくたって、自分の心の中を全部吐き出せば、それが絵なんだ」と諭された。
数年後の正月。粛燦寶宅を訪れると門松が立っていなかった。一番可愛がっていた次女が病で亡くなったという。粛燦寶は悲しみのなかで、笑っている童子の絵を描いた。以降、描く人物は子どもからお年寄りまで、みんな笑っている。
個展に著名な画家や書道家が引きも切らず訪れた。放送作家の永六輔さんや俳優の左幸子さんらも観賞にきたが、ギャラリーから逃げ出し会おうとしなかった。「宣伝してもらえる好機なのになぜ」と尋ねると、「自分の絵を分かってくれる人が見てくれればいい。カネはあれば便利だが説明しなきゃ買ってくれないような人に用はない」と言った。
75歳になり、粛燦寶はアトリエから出なくなった。「居にとどまりて楽しむ」が口癖だった。以降。篆刻は中山さんが担った。
中山さんは82年、粛燦寶から胡牀(こしょう)庵(あん)青空子(あおぞらこ)の雅号をもらった。胡牀は中国の椅子。経営する時計店名の音読みとも掛けた。名前から「真っ青」な空を思い浮かべたという。どこでも座れる椅子のような、温かく優しい作品を描いてほしいとの願いが込められた。
ある火曜日、いつものように談笑していると、粛燦寶が居眠りを始めた。足が大根みたいに腫れていた。あわててタクシーを呼び、病院に連れて行った。前立腺がんだった。「おめえにみたいに慌ただしい人間はいねえ」と言われたが、何日か遅かったら命が危なかった。入院手続きの際、2人の関係を書類にどう書こうかと相談すると、「知友と書け」と言われた。粛燦寶は中山さんのことを決して弟子とは呼ばなかった。
89年、粛燦寶から一枚の絵が送られてきた。自身が牛に乗り、手綱を中山さんが引く図柄だ。「今後もよろしく頼む」と手紙が添えられていた。粛燦寶突然、家族5人で境町に引っ越してきた。中山さん宅から徒歩10分近距離だ。自宅は「白楼坊」と呼ばれた。窓から利根川の花火大会を眺め、「見たことねぇのが見られた」と喜んでいた。
境でも絵を描き続けたが、入退院を繰り返し94年他界した。91歳だった。中山さんは、病院から遺体が運ばれる時にキジが飛び立ったことを覚えている。国鳥に見送られ、先生らしい」と感じた。
【堀井泰孝記者】


毎日新聞 9月20日 いばらきプリズム
粛燦寶と青空子(下)─ 思い出
楽しく生き、描く
いま重なる「師」の面影
出会って30年目。孤高の画家・粛燦寶(1902~94年、本名水島太一郎)は、境町の時計店主で、唯一の弟子だった胡牀庵青空子こと、中山正男さ(85)に看取られ他界した。師は中山さんに多くの「心得」を残した。
粛燦寶はよく「内側の線」と口にした。心で線を描けと言う意味だ。描き始めると速かった。だがその過程でデッサンを重ねた。植物を描くときは、目が出てからは長崎、実がなってしなびるまで観察し続けたという。入院中も枕元にスケッチブックを置き、夜中でも思い付いたアイデアを書き込んでいた。
「初めはきちんとデッサンし、それを自分の心で砕いて描く」と中山さんに教えた。「にじみ出る優しさのなかに、厳しさと深さがある。その何気なさが魅力」と中山さん。
粛燦寶が描いた画賛「千自由百自在」が中山さんのお気に入りだ。やりたいことが1000あっても、やれることは100しかない、なかなか思い通りにはいかないという意味と解釈した。「100はやれる」と前向きな意味かもしれない。悠々とした生き方と、その画風を感じた。
中山さんは師の思いを受け継ぎ、今も描き続ける。地元のだるま市のポスターやマンホールの絵も手掛ける。ドイツの展覧会にも出品した。5年前も町内に開館した「S-Galley粛燦寶美術館」の館長にも就いた。今春、地元の寺を巡る観音開帳のポスターも描いた。「リスペクトの思いを込め、先生の絵を模倣した」という。そう言えば、60年前に粛燦寶と巡り合わせてくれたのも観音の絵だった。
中山さんはインターネットで粛燦寶の作品を探し、自身の絵を売ったカネで買い集める。収集したサック品は300点近くで、経営する時計店内はまるでギャラリーのよう。粛燦寶の作品アトリエに掛けられている時計も譲り受け、時を刻んでいる。
粛燦寶は食が細かったが、雅号が表すようにコメにはうるさかった。デパートで個展を開いてもレストランにはいかず、いつもお手製のおにぎりをほおばっていた。古里の新潟産のコメで作った餅が好物だった。戦争体験はあまりかたらなかった。それでも東京に米軍機が墜落した際に、竹やりを持って集まった人たちを「外国人を刺すんじゃない」と制したという思い出を中山さんに話した。
令和の米騒動、世界各地で止まない紛争……。「粛燦寶」が生きていたらどう思うだろうか?」私(記者)は中山さんに聞いた。「先生は政治的なことは一切口にしなかった。さまざまな思いはあっても、楽しく生きる、楽しく描く、それだけだった」と答えが返ってきた。
粛燦寶はよく、唐代の詩人、白居易の漢詩「蝸牛角上争何事」で始まる。カタツムリの角のような小さな世界でいったい何を争うのか、という問いかけだ。人は、まるで火打ち石の火花のような一瞬の中に身を寄せているようなものだ。富めば冨んだで、貧しければ貧しいなりに、それなりに楽しもうではないか、と続く。結びは「不開口笑是擬人」。口を開けて気持ち良く笑わない者はバカだよ。粛燦寶の生きざまそのものだ。
中山さんにも同じ質問をしてみた。「世の中…そうだよね。まあ、なるようにしかならないんだよな。生きている間、描き続けて楽しむしかないのかな。長生きも芸のうちだから。」静かにほほえむ中山さんのそばで粛燦寶がカカと笑っているような気がした。 【堀井泰孝記者】
ミニ講座「粛粲寶と胡牀庵青空子」の世界・Ⅱ


昨年秋に天候不良の為中止となった、「粛餐寶と胡牀庵青空子の世界・Ⅱ」が、5月27日に境町研修センターにて、開催されました。
当日は境町在住の胡牀庵青空子の雅号を持つ、幸松屋店主の中山正男さんを講師に迎え、第1回と同様、粛餐寶との特別な関わりなどのエピソードを伺ったあと、お二人の貴重な作品を鑑賞しながら、絵の魅力や解説をしていただきました。
参加者は約30名でしたが、こぢんまりとした会場には、天衣無縫、変幻自在と言われる作品が展示され、和気あいあいとした雰囲気で「間近で作品が見られて良かった」との感想も聞かれました。
町の宝ともいうべきこれらの作品ですが、今のところ、多くの人の目にふれるような状況ではなく、残念なことだと思います。
一人でも多くの町の方々にお二人の作品を知っていただくために、常設展示が出来るようになればうれしいと思います。
講座に参加して......浜田みつこさん
恥ずかしながら墨絵を数年間習っていて初めて耳にしたお名前でした。
講師の中山正男さんは唯一のお弟子さんで、晩年は中山さんを頼って境町に移り住んだこと、何枚ものデッサンをして一気に作品を描かれるなどのエピソードを聞き、たくさんの貴重な
作品を手にして拝見することができ感激でした。
ある絵には癒やされ、ある絵には笑みがこぼれ、ある絵には生命力を感じ、元気をいただく事ができました。
「これからの生活に少しの努力を取り入れて行く」そう決める事の出来た講座でした。
粛粲寶の作品


ミニ講座「粛粲寶と胡牀庵青空子」の世界
境町ゆかりの二人の画人、粛粲寶と胡牀庵青空子の作品を間近に鑑賞しながら、解説をしていただきました。講師の中山正男(胡牀庵青空子)氏は粛粲寶画人の唯一人の弟子と言われていますが絵に纏わるエピソードや二人が交わしたお話などを伺うと、単に師弟関係や絆だけでは言い得ない深い魂の交流があったのではないでしょうか。
10月15日はあいにくの雨模様でしたが29名の方が参加してくださいました。ありがとうございました。そして22日は台風21号の襲来で残念ながら中止といたしましたが、またの機会をお楽しみに!
きんもくせい(さかい女性ネット)

